【概念の分析論】sich hervortunの翻訳への引っかかり
翻訳の比較
手持ちの本の翻訳
人間が認識能力を働かせると、さまざまな機会にさまざまな概念が生まれる。……(光文社古典新訳文庫、2p47)
我々が認識能力をはたらかせると、さまざまな機会に応じて様々な概念が生じる。……(岩波文庫、P140)
図書館から借りてきた本の翻訳
或る認識能力がはたらかされると機縁の様々なるに従つて種々なる概念が現れて来る、……(天野貞祐訳、全集第8巻p122)
ひとが任意に認識能力を働かせる場合、少なからぬ機縁に従ってさまざまな概念が出現する。(岩波書店、上巻p144)
認識能力を作動させるとき、あいことなる機縁にしたがい、さまざまな概念があらわれてくる。(作品社、p113)
ある認識能力を働かせると、さまざまな動機に応じて異なった概念が現れてくる。(以文社、上巻p130)
筑摩書房訳のバージョンを教えていただいた
われわれが認識能力を発揮しはじめると、いろいろなきっかけからさまざまな概念が頭をもたげるものである。
筑摩書房石川文康訳p124
久住哲.icon的には筑摩書房の訳が一番いいと思った。
「生じる」という訳についての疑問
認識すると概念が発生するって意味不明では?久住哲.icon
これを辞書で引くと「際立つ auffallen」という意味が出てくる。
文意的には、〈自分の認識が働いているところを見れば、そこでは機会に応じてさまざまな概念が目に立つ〉ということなのでは?
この解釈は思いついたきっかけがある。それはブランダムによる記述なので、後々ここに引用しておきたい久住哲.icon
認識がそのつどカテゴリーを生み出すことになっちゃってて、おかしくないか?
「概念」という語で念頭に置かれているのが「純粋悟性概念」だとした場合。
だが、ここで念頭におかれているのは、純粋悟性概念ではない!